答がない場合もあるゲームだった

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3日ぐらい前に「フリーセル」というゲームのことを書いたら
いろいろと知らないことを教えてくれたかたが何人かいた。
教えてもらうまでは
「必ず解けるということが数学的に証明されているゲーム」なのだろう
とばかり思っていた。

話は変わって…
棋士が将棋のことを考えている時、必ず答(その局面での最善手)があると信じて、大長考したりする。
しかし、時には、時間的な事情もあるので、どうもわからないまま着手するということもある。そして、それが案外好手だったりすることも、またそれがとんでもない悪い手だったりすることも、どちらも多い。
自分でも、答があるゲームをしようとしているのか、答がない場合もあるゲームをしようとしているのか、いまだにはっきりしない。

もう一度話は変わって…
昨日の名人戦は、多くの人がわからないままの局面の答を名人戦という舞台で
出してみようという両対局者の、強い意志というものを感じる内容だった。

昔、近代将棋のもっとも人気のあったコーナーに
「金子教室」という、対局者の棋風や性格や思考過程を推測された、名文のコーナーがあった。
金子金五郎先生の文章は、ほかのコーナーとは違った独特の内容でとても良かった。
もし金子先生が、名人戦第2局を書かれるとしたら、いったいどのように書かれるのだろうか?
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