めぐる話
69393
ふと思いたって師匠の灘ととても親しかった方のところへ行く。
ほかの用事もあったのだが、電車を乗り継いでも面白いぐらい、ロスタイムなしで次から次へと乗ることができる。
こういう時は、師匠もそうしてほしいのだなぁ〜と勝手に判断。
突然の来訪にも、嫌な顔ひとつされず、お邪魔して、いろいろな話をうかがう。
やはり、「聖の青春」を読んでも、テレビでその同名のドラマを見ても、私と同様に心を痛められたという。(1/7参照)
いったい、いつになったら訂正とかお詫びはあるのだろうか?
できればそういうことはあまりしたくはないが、もっと目立つところで大声で抗議しなければいけないのかな?
私などがまるで知らなかった昔話等もいくつか聞かせていただく。
師匠は、故神田辰之助九段門下。
大昔、その同系列の師匠の後輩の棋士が、とても困った時に、師匠はいろいろと気をきかせて助けてあげるというようなことをしたそうな。
しかし、その時、その後輩の棋士からは、きちんとした礼を述べてくれなかったと、師匠は後日その親しい人に、こぼしていたそうな…。
私もそういう無礼はよくあったし、今でもたびだびそういう無作法はある。
動揺していたり突然のこととかがあったりした時は、特に若輩では、目上の人にお礼をのべたりお詫びしたりということが、心の中では思っていても中々口に出したりして態度で示すということができないこともあるものだ。
私は、その師匠と親しかった人に伝えた。
「でもその先生(師匠の後輩でも、私には大先輩)は、ある時、とても親切にしてくれましたよ。私はその時、なぜそんなに親切にしてもらうのか、あまり良くわからなかったのですが、そのお話聞いて、やっとその理由がよくわかったような気がいたします」
その師匠の後輩の棋士というのは、その大昔に師匠にしてもらったことに、とても感謝していて、ずっと忘れてはいなかったのだろうと思う。
私がしていただいたことは、そのことだけが原因かどうかはわからない。
聞いてみるという失礼なことはする気も毛頭ない。
でも私が灘の弟子ということが理由のひとつだったことだけはまちがいないと思う。
師匠のありがたさとかについては、師匠がいなくなってしまってから感じることのほうが多い。
とても良い話を聞けた。
電車が次から次へとホームに来たわけだ。
Copyright (c) 2001 Kenji Kanzaki