水無瀬神宮と神田辰之助

二週間前、室岡七段といろんな話をしている途中、「一度は木村名人を間近で見てみたかった」という話をされた。
私は、幸運にも関西将棋会館竣工記念行事で、建設に携わられた方に角落で指導の木村名人の記録係をさせていただいたことがある。
室岡さんはそのことも覚えていてくれてちょっとびっくり。

第3期名人戦木村義雄名人に神田辰之助八段(当時)が挑戦。
第2局は、昭和17年7月21日〜23日まで水無瀬神宮にて。持時間は15時間。記録係は大山五段。

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名人戦なるが故に許された対局場、水無瀬神宮は、後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇を御祀り申し上げる官幣大社で、特に後水尾天皇の御宸筆の駒をもって由緒深きところである。かゝる所で名人戦が行はれることは、たゝ゛対局者の栄誉のみでなく、全将棋界の光栄であるといはねばならぬ。」【樋口金信記者の東京日日新聞(現在の毎日)観戦記】

最近、灘師匠の親族の方から、病(胸部疾患)の中、名人位に挑戦する神田先生の対局に、末弟子の灘がずうっと付き添って介抱しながら対局した時の話を間接的に聞く。
名人戦の時には、病状もとても厳しいままでの対局で、二階への階段を自力で上ることができず、当時15歳ぐらいの灘が杖代わりとなって肩を貸して階段を登ったという。
「神田師匠の体はとても軽くてビックリした」と後に言っていたと伝え聞く。
名人戦全集にも「70キロあった体重が45キロにまで減ってしまっていた」と記されていたのを見つける。その悲壮な状態と決意を想像すると涙が出てきた。

「卓越せる技量と旺盛なる闘志、加ふるに不屈の精神力、棋士としての総ての天分に恵まれた神田氏の挑戦は、土居、花田の両強豪にも劣らぬ脅威を感ぜずにはをられなかった。」【木村名人 第1局最終譜の自戦講評】

神田先生は、翌昭和18年9月6日に51歳で亡くなられた。

68年後10月。中将棋公開対局。
大師匠が命賭けで名人位に挑まれた由緒深き神社にて、正装で3時間近くもの時を過ごさせていただいた。
孫弟子として、とても貴重で光栄だった。
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第3期名人戦第2局 神田挑戦者の18手目△8四角の局面
灘の遺品の神田好みの駒と布盤

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