急所を後に伝えることのできる「活字」

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週刊将棋を読む。
真っ先に読むのはもちろん名人戦最終局の感想戦の様子。

自分がいかにその一局の急所をはずした場所を考えていたかがよくわかる。どこが勝負どころだったかということは、週将や、本日より掲載されている甘竹記者の毎日新聞観戦記や、6/1ごろ発売の将棋世界等を読んでいただくとして…

現地解説者や、大盤解説会解説者の棋士でも、予想がはずれたり対局者しか読んでいない意外な結論ということについてまではなかなか気がつかない。
対局者ほどその一局にだけ集中できる環境で、考えていないからやむを得ないし、客観的に見た第一感というものを周囲に伝える義務もある。長時間考えて検討してみないと結論が出なくても、「こっちを持ちたい」とか、「普通はこう指すところ」とかも言わなければならないから。

竜王戦倶楽部で中継された森下ー畠山鎮戦の観戦記では山田史生さんが
「こういうふうに時代も移り変わっているから、観戦記の形態も少しずつ変わっていく必要もあるかもしれない」
というようなことを書かれていた。

インターネットで進行を見ていた方々も、解説会を見にいってた方々にも、ぜひ新聞や雑誌等も買って、さらに詳しい深い正確な感想戦の情報等や対局者の姿等を、ご覧いただきたい。
「対局との同時進行では、表面に出なかった対局者だけが読んでいた深い読み筋」とか、「周囲が思っていたのと別の、対局者のその局面に対する形勢判断」
というようなものも、観戦記や記事には載っているはず。
またそういったことを報道する義務も活字のメディアにはあるはず。

活字より速い情報伝達手段が発達することにより、
「活字離れ」を必要以上に過剰に心配されている人も一部にはいるようだ。
でも、私はそうは思っていない。
それならそのインターネットを使って、「さらに詳しい詳細な情報や記事や番組はここにいけばありますよ」ということを伝えるべき。
活字情報を深く奥まで突っ込んだ内容にすることでも、じゅうぶんにカバーできる。

棋士が時々指し手の情報を得ながら、同じ一局の将棋について考えるということをしたとしても、それぞれの人がどれだけ対局者に近い状況で考えることができるかによって、学習効果も違うような気がする。
私自身も、もっと深く急所の局面を眺め続けて、深く考えるべきだったと反省。
Copyright (c) 2002 Kenji Kanzaki